AMネットの前身は、APEC・NGO関西実行委員会でした。1995年に大阪で開かれたAPEC閣僚会議ならびに首脳会議に向けて、「APECに社会開発・環境・人権の視点を!」「APECに市民の声を!」を合言葉に、日本各地のNGOの連絡組織としてAPEC・NGO連絡会が結成されたのが1995年5月。それと同時に、開催地・関西において、APECが推し進める経済のグローバル化について学習し、APEC大阪会議に向けて地元でのイベント等を実行する主体としてAPEC・NGO関西実行委員会が組織されました。
APEC・NGO連絡会が、APEC域内の様々なNGOに呼びかけて、APEC大阪会議への並行会議としてのNGO国際会議を準備し、開催したのに対して、関西実行委員会では各種学習会や直前に大規模な国際シンポジウムを開催していきました。もっとも、大阪での事務局の実体としては、連絡会も関西実行委員会も同じ母体で動いていました。
一連の活動が終わり、関係者の間で開いた反省会では、APECに代表される経済のグローバル化が引き起こしている問題については、ある程度日本社会に伝えることができたものの、APECに市民の声を届けたり、社会開発・環境・人権の視点を盛り込むことには至らなかった、というものでした。たとえ、それらが未達成でも、時限組織だった連絡会も関西実行委員会も解散することが決まっていたため、主には関西で事務局を担っていたメンバーで改めて協議を重ね、経済のグローバル化、とりわけAPECをモニターするNGOを作ることとしました。こうして、APECモニターNGOネットワーク、すなわち、現在のAMネットが1996年1月に発足しました。当初はAMネットのAはAPECから、Mはモニターから、それぞれの頭文字をとって、略称としていました。
APECをモニターして
AMネットが発足したと言っても、当初は前年の活動の残務整理に追われ、なかなか経済のグローバル化のモニターへと移行できたわけではありませんでした。元々、NGOによるアドボカシー(政策提言・世論喚起)活動に関心が高いメンバーが集っていたとはいえ、経済のグローバル化を検証する専門家など皆無な状態から出発したのが実態です。前年の学習会での蓄積と、NGO国際会議などを通じての海外のNGOから得た分析が、貴重な情報源でした。そのために、当初は海外のNGOとの連携を継続・拡充し、より多くの情報を得るために、APEC首脳会議を追いかける形で、並行して開かれるNGOの一連の活動への参加を重視していきました。
大阪の翌年1996年はフィリピンのマニラで。1997年はカナダのバンクーバーで。1998年はマレーシアのクアラルンプールで。ある時は何とか助成金で派遣資金を調達して、また、ある時は自腹で、人を派遣しながら、情報収集に努めていきました。その中で、当然のことなのですが、経済のグローバル化やAPECを巡って、NGOの間では様々な考え方があることや、中には対立することもあり得ることを知り、驚くやら戸惑うやら。そうこうしているうちに、1997年6月のタイのバーツ急落に端を発した“アジア通貨危機”を契機に、域内の経済のグローバル化推進を図る母体としてのAPECの地位は低下していきました。
海外のAPECに関するNGOの会議に参加を続ける一方で、国内でもAPEC・NGO連絡会のフォローアップ会議を年に1、2回、全国各地で開催し、主に東京のNGOと情報交換、交流を図っていきました。そうした中で出てきたのが、一つがWTO。1995年に発足した国際機関ながら、経済のグローバル化を推進するための強固な制度を数多く具備しているために、地位低下が著しいAPECに代わってWTOをモニターする必要性が、多くのNGOから報告されていきました。それと、もう一つがMAI。1997年から先進国クラブとも言えるOECD(経済協力開発機構)において検討され出したMAIについて、カナダのNGOからNAFTA(北米自由貿易協定)の投資協定と同種の協定が模索されており、非常に危険きわまりないとの警告が出されていると、1998年初頭に開かれたフォローアップ会議で東京のNGOから報告がありました。
MAIの衝撃
MAIやNAFTAの投資協定などと言っても、当時、AMネットでは十分な情報を持ち合わせておらず、何それ?といった状態でした。それだけに、環境や開発に関する法律、条例、規制や計画を政府や自治体などが定めたことによって、その地域に投資している企業が制約を受けた場合に、所期の利益を挙げられなかったとして、企業が政府や自治体を相手取って損害賠償請求できる条項がNAFTAには備わっている、と知った時には、仰天したものでした。地域住民が自らの暮らしを守るために様々な法整備を求めたり、地域計画の適正化を推進したりする。こういった民主主義の基本とも言うべき活動が成果を挙げることが仇となって、企業から損害賠償を請求され、最悪の場合には税金から賠償金が支払われる。住民の権利を蔑ろにして、企業の権益を守る制度の理不尽さと、こういった事柄に関する情報があまりに少ないことに、唖然としたものでした。
早速、事実を伝えるツールを作ること、伝える場を設定していくこと、日本政府に交渉から離脱するよう求めていくこと、などを東京のNGOと決め、大阪を起点に東京までキャラバンしながら各地で学習会を開催し、最終、東京で関係省庁に出向くこととしました。キャラバン各地の学習会では、こういった情報に対して一様に驚きをもって迎えられたのに対して、最後に訪れた外務省では、問題視されている意味すら理解できないといったような対応で、その感度の鈍さに怒り爆発といった一場面もありました。
結果的に、MAIについては、NAFTAで“被害”を経験しているカナダに加えて、映画産業などの文化投資規制を束縛されることを嫌ったフランスが交渉から離脱し、OECDでの交渉は破綻しました。また、この交渉に対しては、インターネットを介して瞬く間に世界各地から約9千ものNGOが反対声明に署名するなど、情報発信と集約が大きく変わった契機としても注目されました。
WTOの混迷と交渉過程の透明化
1999年よりAMネットではWTOモニターを主課題としていきます。農業とサービスに加えて、林産物、水産物などについて、国内への影響やグローバルな影響について分析を進めていきました。こうした流れの中で、1999年11月のWTOシアトル閣僚会議にメンバーを派遣し、様々なNGOの活動に参加するとともに、各国の交渉担当者とも意見交換することで、より多くの情報を得るよう努めていきました。
そうした中、シアトルのWTO閣僚会議では、交渉決裂という事態を迎えます。当初は、多くのNGOの反対により、などと報じられもしましたが、実際にはアフリカの首脳たちがWTOの“非民主的な意思決定”を理由に交渉から離脱したことで、決裂しました。これ以後、アフリカをはじめ南の首脳の関心を引き付けるために「貿易と開発」がWTO交渉の中で主課題として浮上します。そして、2001年の「9.11」直後のドーハ閣僚会議で、ドーハ開発アジェンダが採択されます。ただ、開発の呼び水もアフリカをはじめとする南の首脳を引き付ける特効薬としては機能しておらず、カンクン、香港と2年おきに開催される閣僚会議においても交渉は決着せず、WTO交渉は混迷の度合いを深めています。
AMネットでは、カンクン、ドーハにもそれぞれメンバーを派遣し、情報収集やネットワーク形成に努めてきました。同時に、WTOについての学習会を重ねるとともに、日本政府の交渉担当者との意見交換会を実施して、とかく不透明なWTO交渉の過程について、少しでも多くの情報を得ること、伝えることに努め、現在も継続しています。意見交換会は、常に誰でも参加できる状態で開催し、AMネットからの要望や要請を日本政府関係者に伝えるのではなく、なるべく多くの参加者が、それぞれの関心に則して意見や質問を述べ、より多様な情報を日本政府関係者から引き出す形式としています。
国内のネットワークの拡充
AMネットは、発足以来、今日まで、非常に小規模に活動を継続してきました。ただ、他のNGOと協力・連携することで、規模以上に活動が展開できてきた面があります。一つは関西NGO協議会への加盟。関西地域の国際協力NGOのネットワーク団体である関西NGO協議会には1998年に加盟しました。関西NGO協議会では、主に提言専門委員会に委員を出してODA政策に関する定期協議会開催に力を入れています。また、NGOのアカウンタビリティのあり方などについても、関西NGO協議会における議論に参加することで、自らの拠って立つ位置を確認することができています。
APECからWTOへと主対象を変更した後、2000年からWTO・NGO戦略会議の開催を呼びかけ、日本各地での開催を進めるとともに、関西では主催団体として会議運営を担ってきました。この中から、2000年には「徹底討論!WTOウィーク」と銘打ったWTO問題に関するスピーキング・ツアーを、海外のゲストを招いて実現してきました。2004年からはWTO/FTA・NGOフォーラムと改称して、各地で開催しています。
林産物の自由化に関して、熱帯林保護を進めるNGOと共同で調査研究や政策提言を進めてきました。また、2002年にはヨハネスブルグ・サミットに向けての連絡会にも参加し、関西で環境省との意見交換会などを実現してきました。
第3回世界水フォーラムへの対応
2000年3月にオランダのハーグで開かれた第2回世界水フォーラムで大々的に世界の水問題の解決策として打ち出された、水の自由化の推進が、その後、約3年にわたってAMネットの活動を翻弄していきます。水の自由化、すなわち水道事業の民営化と水利権の市場化が、いかに貧困層から命の源・水を奪っているのか、について、多くの情報が入ってくるに至って、AMネットの地元・琵琶湖・淀川流域で開催される第3回世界水フォーラムに関与せざるを得ないという判断をくだしました。
AMネット単体では対応しきれない大きな国際会議であるため、環境NGOを中心に地元NGOに呼びかけて世界水フォーラム市民ネットワークを結成し、第3回世界水フォーラムに一人でも多くの人の参加を推進することとしました。水問題への関心喚起と、水フォーラムへの参加の促進のために、世界水フォーラム市民ネットワークとして数多くの事業を実施し、ほとんどのAMネットのメンバーはこちらに忙殺されることとなりました。
AMネットとしても、水の自由化に関する分科会と、流域単位の水管理に関する分科会を主催し、多くの海外のNGOからのスピーカーも交えての意見交換を行いました。第3回世界水フォーラムの成果としては、日本政府が水の自由化に慎重であることも反映してか、第2回世界水フォーラムに比べると水の自由化の推進については後退したものの、PPP(Public-Private-Partnership)=官民の連携の推進が謳われたことは、実質的に水の自由化を推進することに繋がるといった疑念を残しました。
AMネットへの改称とFTAの台頭への対応
2002年に法人化を図るのを機に、名称をそれまでのAPECモニターNGOネットワークからAMネットへと改称しました。それまで略称だったAMネットを正式名称とし、その意味付けとしてAdvocacy and Monitoring Network on Sustainable Developmentという長い、小難しい英語を記しています。
水フォーラムに翻弄されながらも、混迷の度合いを深めるWTOを横目に眺め、さらには、WTOに代わるかの勢いで推進され出したFTA(日本はEPA・経済連携協定)に警戒感を強めていきました。というのも、多国間交渉のWTOの場合は、交渉当事国のいずれかから交渉過程が洩れ聞こえることも多くあったのに対して、二国間交渉のFTAの場合はそういったことが想定し難い、すなわち、情報公開がより一層貧弱になること。また、二国間の力関係が露骨に出るため、力関係の弱い国は不利な協定を飲まざるを得ないこと。人の移動などWTOにおいては交渉のテーブルに着くかどうかが議論されている課題についても、どんどん進められる可能性があること。さらには、同時に多くの国との交渉が進められているため、交渉の過程をフォローするのが困難なこと。
メキシコとのFTAにおいては養豚業者の人と、フィリピンとのFTAにおいては外国人労働者支援のNGOとの連携が生まれるなどしたものの、拡大・拡散していくFTAについては、十分な情報収集・分析ができていないのが現状で、まだまだこれからの課題と言えます。
終わりに
AMネットの10年を振り返るならば、もっと緻密で平準な分析が必要だとは思います。記述に濃淡があるのは、多分に筆者の関与の度合いを表わしており、10年間共に走り続けてきたメンバーがそれぞれ記述すると、また、違ったAMネットの姿が見えてくるかも知れません。小さい所帯ながら、その前身から数えると11年間も同じ仲間と走り続けてこられたのは、まずは素晴らしい仲間と出会えたからだと言えます。また、新しいメンバーの参加に勇気づけられ、元気づけられ、空中分解することなく、続けてくることができました。それに加えて、内外問わず周囲の人たちの、時には優しく、時には厳しい支えがあったからこそ、続けてこられたことに、本当に感謝しています。
10年の活動を終えてみて、経済のグローバル化を巡る様相は、ますます激しくなり、国内外ともに露悪とも言える競争社会が現出してきています。そういった現状を踏まえれば、「AMネットはこの10年何してきたんや?」ということになりかねないかも知れません。10年以上も前から、こういった格差の増大する、暴力的な、拝金主義が蔓延る社会を予見しながら、何ら効果的な策は打てなかったのか、と。競争力を至上のものとする経済至上・市場主義に対峙するには、力づくで変革を求めるのではなく、静かに、淡々と、変革の端緒を実行し、伝えていくべし。競争による暴力に晒されている人たちからすれば、甘い対応かも知れませんが、継続していくことが大切なことと改めて認識してきています。
素人集団で活動を始めたAMネットは、10年を経た今も、素人集団として活動を続けています。常に門戸を開いて活動を続けていますので、ぜひ、もう一歩でも半歩でも、AMネットの活動に足を踏み入れてくださるようお願いします。次の10年に向けて、ぜひ一緒に走り始めたいものです。